(kaori1219から)

#9 何が人を救ったのか

すでに知っている方も多いと思うが、僕は在伊中に地震で新潟の家を失うという、なんとも稀なケースに遭遇した。

潰れた家の中にいた家族が生きていたということ以上に望むものなどないが、スーツケースといくつかの段ボールで、家を出てきていた僕も、それ相応に何かを失い、決まりかけていた進路も失い、人生は大きく変わってしまった。

当然といえば当然なのだが、僕には何の手当もない。

遠い異国の地で、いち学生が帰る場所と手段を失うことは、恐怖以外のなにものでもない。まだ学生だった僕には、食料をやりくりできるのか、雨を凌ぐための家はどうすればいいのか、それすらもわからなかった。

おそらく今でもそうだと思うが、海外に「留学」でなく「進学」した被災者家族を支援する制度は少ないのではないだろうか。当時、日本大使館や東京の外務省、首相官邸に掛けあったりもしたが、特に帰国費用を借り受けるとか、そういったことは出来ないし、自分でどうにかしてくれとのことだった。元々期待してはいなかったし、自己責任なので当然のことだろう。

心労で5kg痩せた。

家族の無事を確認し、引越しや瓦礫の撤去を手伝いたかった。自分の家を、何とかしたかった。

しかし僕は理論上、被災者ではない。実際に被災地の辛い環境にいるわけでもないから、とても自分を助けてくれなど、言い出す事もできなかった。

苦しかった。

石畳のすきまに挟まって取れなくなった小さなゴミのように、「立場の隙間」に僕はいたように思う。被災地の人を最優先することに異論はなく、そうするべきだと思う。ただもう少しだけ、融通のきく制度か何かがあればいいのに、そんなことを思っていた。

ひどい時には、笑顔で過ごす友人の顔を見るたび、やりきれない虚しさ、怒り、妬み、そんなものを腹に抱えていた。飛行機で直接飛んでも13時間ほど掛かる土地は、何の不自由もない日常が繰り広げられている。スーパーの駐車場でいつものようにお金を求めてくるジプシーに、暴言を吐いてしまったこともあった。求めたい気持ちは僕も一緒だった。

しかし僕を救ってくれたのは、制度ではなく、人だった。

まず大家の女性が今後一切の家賃を無料にし、そして僕を母のような暖かさで抱きしめてくれた。目処がたったあとは、通常通り支払ったため、おおよそ2ヶ月の間だけだったが、住む場所を確保できる安心感に僕はとても救われた。

イタリア人は情に熱いと良く言ったものだが、彼らは困っている者に市役所の地図を差し出すようなことはめったにない。

この土地には人というセーフティネットが、逆にこぼれ落ちることが難しいくらいに張り巡らされている。危ない粉でも持ち歩いていそうな青年が、おばあさんの手押し車を担いで階段を登っている土地だ。エスカレーターがほとんどない、世界遺産と呼ばれる街でも、実質的なバリアは少ないかも知れない。

そして神奈川に住む姉夫婦の支援のおかげで、地震発生から1ヶ月後に一時帰国し、避難所からアパートへの引越しと仮設住宅への引越しを手伝うことが出来た。

その前にもイタリアで、友人の女性から一時の渡航費用を全額僕に寄付するという申し出も受けている。

さらに感謝してもしきれないのは、ヴェネツィアやミラノを旅行することを諦めてまで、僕を支援してしてくれた心優しき日本人女性だ。

うまくいかないことを、国や政治家や制度や学者や他人のせいにしてばかりいても、僕は救われなかっただろう。実際に僕の力になってくれたのは、政治でも主義でも自由で平等な世の中でもなく、ただ、人の力だった。

そもそも国や制度というものは本来、誰かが自分の住む場所を良くしようと作ったものであって、それらが機能しないのであれば、自分で動けばいい。

もし人が困っていたら、まず自分が手を差し伸べよう。そういう当たりまえのことを、人の手の暖かさは僕に教えてくれた。

僕は本業の修復で学んだことが霞むほど、多くのことを学んだ。

「人を頼る前に、まず自分が努力しなければならないこと。」

「何かのせいにしても何も生まれないこと。」

「困っている人が欲しい物は、アドバイスではなく実際の手助けであるということ。」

「救いの手には、感謝の言葉と共に素直に手を重ねること。」

「主義主張で腹は膨れないこと。」

「まず、行動すること。」

僕は修復の理論や化学を主に専門としていたが、机の上でチェスをしていても、文化や歴史は守れないということにも気付かされた。

今も日本の何処かで、誰かが身をすり減らしながら、文化や歴史を守り続けている。

最後に、イタリアで僕を支援してくれた心優しき日本人女性は、今では僕の家族になっていることを付け加えておく。

今も被災地で苦を耐えしのぐ方々と、被災地で実際に活動されている方々に、一刻も早い安息の時間が訪れることを願って。

#8 テンポ

友人・先生・滞在許可証・卒業証書

さて、これらの共通点は何か。今回はなぞなぞから入ろうと思う。

さらに「電車」を追加すると、わかる人も多いのではないだろうか。そしてもしかすると、このなぞなぞは日本では成立しないかもしれない。

答えは「時間通りにやって来たらビックリするもの」である。

「遅れてやってくるもの」でも正解な気もするが、遅れることが当たり前だと誰もが思っているので、時間通りにやってくることがそもそも驚きなのである。だから厳密に言えば正解とすることがはばかられるわけである。

ローマの語学学校に通ったとき、「9時に夕食の待ち合わせ※1」と言って時間通りにやってきた人間は、僕ら夫婦とドイツ人だった。主賓にも近いイタリア人(あえてローマ人といったほうがいいのかも知れないが)の先生は予想通り遅れてやってきた。

いや、語弊があるかも知れない。

彼女に遅れてきたつもりはないのだから。「時間通り」という言葉が意味する時間は、言葉がそうであるように、国によって異なるのだ。

9時の集まりがあれば、9時前に揃っていたくなるのが日本人。しかし多くのヨーロッパ人にとっては、約束の時間というのはあくまでも「9時くらい」という目安の時間であり、日本人のように8時55分を指すことのほうが珍しい。とりわけイタリア人はその頂点に君臨するのである。

滞在許可証は帰国1ヶ月前にやっと発行され、卒業証明書は卒業後1年で届いた。電車が20分遅れるくらいは当たり前だし、授業が始まるのは大体15分を経過したあたりだ。そもそも朝の9時から授業が始まる場合、僕の学校は朝の9時にようやく校舎に入れるシステムだった。

テンポ。

奇しくも日本人がよく使うこの時間感覚の速さを表すことばは、実はイタリア語なのである。

僕らが「いいテンポ」だと思うテンポは、彼ら本家にとっては早過ぎるテンポだろう。とにかく時間に対して「寛容」である。人が遅れても特に気にしない人が多い。

イタリアの絵画修復はとにかく時間がかかる。何年も修復中で、いつ見られるかわからないという状況はよくあることだし、良い仕事はゆっくりと時間を掛けなければ成し得ないことを彼らは十分に理解している。多少おしゃべりが過ぎていることは否めないが、人間は完璧に出来ていないことを、彼らは宗教的な背景からも良く知っているのだ。

文化財にとって1年早く修復が終わったとしても、それは彼らの過ごしてきた、そしてこれから過ごすだろう幾百年という膨大な時間の中の、ほんの一瞬でしかない。その一瞬を少しだけ短くするために、大きく寿命を削ることになるミスが起きては元も子もないのである。

例えば電車を例にあげてみようと思う。イタリアではまず人命を危険にさらしてまで、定刻通りに電車を走らせようという発想がまずないだろうし、1分2分遅れたからといって怒る乗客もいない。

しかし東京では1分電車が遅れただけでも、謝罪するアナウンスが入るし、たまに車掌に怒鳴っている人を目にする。そして急いで事故に遭うということは、紐解いていけば、1分の遅刻も許さない雰囲気が生んでいる弊害なのではないかと思う。

そもそも人間は24時間という時間の枠で生きるように設計されているわけではない。

電力にしても、少しの停電で苦情の電話を掛けたり、ましてや計画通りに「停電しないこと」に怒ったりするのはいかがなものだろうか。「あるべき」とか「なければならない」という理論が良くないのではないかと思う。

「ミスを許さない風潮」が、巡り巡って様々な「ミスを生んでいる」ような気がしてならない。

人間は完璧ではない。

全てを善悪で語らず、そして勝ち負けでなく、痛み分ける、赦し合うことこそが、今の僕らには必要なのではないだろうか。

誰が悪いかを言い合う前に、もっと行動しなければならないことが山積みなはずである。

※1 イタリアではこの時間くらいから外へ出て外食をするのが普通。

#7 効率化と職人の一般相”反”性理論

コスト削減のため。効率化のため。

最近、新聞やニュースなどでよく耳にする言葉だ。いや、耳にのこるといった方が適当かもしれない。

あまり経済に造詣が深いほうではないけれど、財政上のムダをなくしたり、仕入れるモノの単価を下げたりする行為のことを指しているのだいう認識で話を進めさせていただく。

キャンバスも、日本では非常に効率化が図られている。

P50号(116.7×80.3)、F20号(72.7×60.6)、M6号(41.0×24.2)…。微妙な誤差はあるものの、おおよそのサイズが決まっていて、ほぼ決められたサイズの中から選択していく形になる。ミリ単位で細かく指定されていて、なにかとても繊細な比率で決められているような気になってくる。

そしてそれぞれのサイズに合わせたように、額が用意されており、とりわけ異例な大きさのものでなければ、その日のうちに額装が終わってしまうこともある。

修復にやってくるような絵画では、あまり規格外のサイズというものを見たことはない。

イタリアにおいて、キャンバスのサイズは実に適当に決められている。売られているキャンバスのサイズも、60×50とか100×80とか、そういった実に大味な図体をしている。

そして規格外のキャンバスでも、すぐに画材屋のおじさんがホイホイと組んでくれる。

印象としては、イタリア人は好き勝手にサイズを決めているような気がする。あまり規格されるだとか、統一されるということが好きではない、尾崎豊のような人たちばかりの国だなぁと思ったことがある。さらに言えば、イタリアで修復にやってくるような絵画は、100年以上前の絵画であることが当たり前であるため、工業的に統一された規格を求めるほうが難しい。

話はグーテンベルグに変わる。

ヨハネス・グーテンベルグは、ルネッサンスの三大発明※1のひとつである「活版印刷※2」を発明した人物だ。

活版印刷という技術も凄いが、特筆すべきは「ユニットの交換」という発想が生まれたことだろう。活版のサイズは統一されていたため、活版がひとつ壊れたとしても、すぐに他の活版と交換することができる。つまり「規格を統一する」ことで、「部品を交換して修理する」ということが可能になったわけである。今では当たり前となったこのような考え方も、当時はあまり存在しなかったのだ。

いかにもドイツ人らしい、合理的な考え方だろう。

この部品の交換が、効率化、コストの削減に繋がったというのは言うまでもない。

では何が削減されたのか。

コスト削減や効率化によって削られるのは、お金ではないんじゃないか思う。その奥にある、人間の仕事のはずである。

多くの写本家たちは職を失い、写本家たち職人に支払われていたお金は、その量を減らしつつ、機械を持つ一部の裕福な人間に流れていっただろう。その反面、多くの人が本を安価に手にすることができるようになるわけであるが、その影で職人たちが死んでいくことを、忘れてはならない。

イタリアでは多くの職人が必要とされている。それは彼らが効率化を嫌うからではないだろうか。機械ではなく、人がする仕事にお金が流れていく。少し高い出費が求められるかもしれないが、それだけ多くの人にお金が渡るだろう。

フィレンツェの街を歩くと、規格外のサイズで作られた「わがままな子供」のような絵画のために、せっせと額をあつらえている工房を見かける。彼らにとって、絵画というのは何気なく家に飾るための、生活の一部である。

文化と歴史には、換えのパーツなど存在しない。

無駄な苦労だとか無駄な手作業が、僕には到底、「無駄」だとは思えない。

コンクリートで積み上げられたビルよりも、チンタラのんびりと人の手で作られているサグラダ・ファミリアの方が、なんとなくいいでしょ?

※1 残りの二つは「火薬」と「羅針盤」。これらの三つのものは、奇しくも中国で遙か昔から形になっていたものである

※2 活版と呼ばれる文字の版を組み込んで、本や文章などを印刷する技術

#6 お向かいの世界遺産

「ローマは一日にして成らず。」

「すべての道はローマに通ず。」

「ローマではローマ人のするようにせよ。」

現在ではイタリアの首都として立派に腰を据えるこの古い都市には、その街を題材にした諺がいくつかある。

僕はフィレンツェに向かう前に、準備期間として3ヶ月ほどローマに滞在していたことがあった。どうせフィレンツェからは逃げられないのだから、準備期間はせめて他の街でと思ったからだった。

ローマという街はとにかく大きい。

東京に住んでいると、都市の大きさというものに対して感覚が麻痺してくるが、イタリアの中におけるローマはとてつもなく大きな街としてその他の都市と一線を画していた。感覚的に言えば、東京というのは大きな街がいくつにも連結して、ひとつの巨体を形成しているのに対し、ローマはひとつの巨体がどっしりと横たえているという感じだった。

そしてその横たわった巨体は、おおよそ2000年以上も、大きく姿勢を変えていない。

部屋の窓から、大きな石造りのアーチが見えた。ローマの城壁とも水路とも見受けられるそれは、民家を跨ぐようにして建っている。その門の目の前にある洗濯屋に(その時のアパートには洗濯機だけがなかった)足を運ぶときは、待ち時間をその大先輩を眺めることに費やしていた。

コロッセオ。パンテオン。バチカン。最初の頃はその姿にいちいち感動していたのだが、しばらくすると教科書に名を連ねていた彼らも、日常の風景に溶けこんでいった。生活をするというのは、そういうことである。ローマという街を楽しみにしていた分、少し寂しい気持ちだった。

しかしすぐにそれは誤解だったことに気付く。

スーパーに買物に出かけて、遺跡の前を通り過ぎたときのことだった。

僕は「スーパーに買物に出かけて、遺跡の前を通り過ぎた」ことに気付いた。

その瞬間から、いつも見ていた数々の古い建造物が、まるで色がついたように自分の目に飛び込み始めていた。

この遺跡は古代の建造物で、歴史的に価値があって…そんな感覚でいた僕の目に映る世界遺産は、どれも白黒写真のような色彩を残していた。

だけどどうだろう。僕が生活している、今、この瞬間にも、彼らは静かに息をしながらこの街を見守っていた。勝手に白黒写真に収めていた彼らの姿は、携帯のカメラにも残すことができる「現在」の出来事に過ぎなかったのだった。今も実際に目の前にあり、生活の中に溶け込んでいる世界遺産。

遺跡として彼らを殺して綺麗な遺体安置所に保管する保存修復しか目にしたことがない僕の価値観を変えるには, 十分すぎる発見だった。

ローマに限らずイタリアで見た古い建造物の中には、車の中央分離帯として大活躍しているものもあれば、ベンチとして観光客の脚を休めることに一役買っているものもあった。

遺跡とともに生きていく。

もしかしたらもっと大事にするべきだと批判されるかもしれない。

しかし毎朝眠たい目をこすりながら、お向かいの世界遺産を眺めて朝食を準備することも、悪いことではないなと感じていた。

#5 元に戻す

アンドゥ。Undo。

わりとパソコンを触っている方には、耳に柔らかい言葉だと思う。苦手な方はあまり聞いたことがないかもしれない。簡単に言えば、消してしまった作業や、余計に付け足した作業を「元に戻す」ことをアンドゥという。

僕たちは、Undoされることが望ましいと思っている。

人間はエゴの塊である。それは多くの人に賛同される意見だと思う。歴史というタイムラインの中では、常に人間が主役を演じてきた。少なくともこの4000年ほどは。

歴史には、人間が残した「印」のようなものが多く刻まれている。

建物をたてた人の印。幕府を作った人の印。国家を挙げて離婚した人の印。文字通り、天と地がひっくり返ったようなことを主張し続けた人の印。彼らが作った印は、(もともとそうなりたいと思っていたかは別にして)その存在を示すかのように、現代まで語り継がれてきた。あるいは、実際に印そのものを目にすることができる。

では修復という仕事は、いったいどのような印を残すのだろうか。

100年ほど前までの修復の世界では、実際に印を残す修復家もいたようである。自分がなおした絵画にサインを入れてみたり、似顔絵を額の装飾に忍び込ませてみたり。やはり人間というのは、印を残そうとするもので、心温まる一面だと僕は思う。いや、印を残すのは人間に限った話ではないかもしれない。そんな印を発見すると、100年前の同業者と対話しているような気がしてくるものである。しかし、なにもこんなことが頻繁にあるわけではない。念のために。

現代の修復で同じことがあったとしたら、それは重罪とも言える。

僕たちは、おそらく正しいのだろうなと思える信念や倫理観を、多かれ少なかれ、誰もが持っている。しかし通信手段が高度に発達し、気持ち悪いほど全球化した現代でさえ、それらの「ずれ」は必ず存在する。むしろ人が個人として存在する以上、必要なものなのだろう。

現代という一瞬でも、「正しいこと」は人や場所によって違う。その一瞬が歴史という長い時間になれば…その先は明らかである。

だから、答えは出さない。

現代人の価値観だけで、歴史の遺産の命運を変えてしまうようなことがあってはならない。

なぜならば、我々の答えが常に正しくないということは、これまでの歴史が証明してきたからである。

ここまで言うだけであれば、なんとなく格好がついた気がしてくるが、今にも壊れそうな絵画には、修復という、一生残る印をつけざるを得ない。ではどうするのか。

それはUndoができるように、つまり元に戻すという仕組みを作ることである。

できるだけ、後年の修復の際に除去しやすいもの。変質して、作品に影響を与えないもの。我々の行った仕事が、将来すべて無に帰すことができるように、処置を行い、材料を選択する。当然、理想的な選択ばかりできるわけではないが、極力、そうなるように。

僕たちの仕事は、透明で、芸術だけを後世に残し、跡形もなく消え去ることが望ましい。

#4 修復士と嘘

「修復された箇所がわかるようにする」、という旨の話を書かせていただいたのが前々回。

修復理論の講師という肩書きを、幸運にも(不運かもしれないが)持たせていただいているので、今回は少しその点について解説してみたいと思う。

まず、僕たちの多くは、毎日のように「モノ」を見る。

空であったり、猫であったり、テレビであったり。ここだけの話だが、それが綺麗な女性かもしれない。とにかく、何かを見ている(見とれている)わけである。

本当にその形をしているのだろうか。

僕たちが見ていたものは、僕たちが見た形をしていたのだろうか。写真に写っているものは、本当にその形をしているのだろうか。こんな疑問は、誰もが一度は考えたことがある、最もよく知られた脳内旅行の通過地点かもしれない。

「たぶん、そうなのだろうな」

脳細胞の研究者でもなければ、哲学者でもない僕の答えは、ここらへんが関の山だ。

修復の話に戻る。

修復された箇所がわかるように色を入れていく方法は多種多様なのだが、よく知られた技法の一つに「線描法(Rigatino, Trattegio ecc…)」というものがある。読んで字のごとく、色を線描で補っていくのである。最もオーソドックスなものは、色の三原色を用いて、それぞれを隣り合わせるように置いていく。あまり重なることがないように、均一に線を入れていくことが求められる。

ようはプリンターのそれを思い浮かべて欲しい。プリンターから吐き出させる色は、多くの場合は3色であり、その3色の存在比率によって、様々な色が表現されるわけである。

こうして色を補うことにより、(日本の展覧会では守られることのない)適切な鑑賞距離に於いては、色の面として認識することができる。(列を割りこんでくる、普段は上品なのだろうご婦人のように)近寄ってみれば、線がハッキリと確認できるため、鑑賞者は特別な道具なしでも、オリジナルがどこまでなのかを認識することができる。

いや、思い返すと、特別な道具は見えていないだけで、あったのかもしれない。

人間の眼である。

人間の眼には、おおよそ赤・緑・青の光を認識出来る機能があり、それを高速で合成処理をかけることで、我々はリアルタイムに近いカラー映像を鑑賞することができるのである。なんとも贅沢な機能が、肉眼で見ることが難しい部分にはあったということだ。

線描で描かれた一本一本の線は、ある程度の距離を置くことで、眼の処理能力を超え、線として認識できなくなる。こうして、腕のいい修復士によって創りだされた「ウソ」の色は、人間の眼を細胞レベルで欺くことができるわけである。それを僕たちは、錯覚と呼ぶことが多い。

細胞が騙されたのであれば、僕たちの脳内は、それを「正」の情報として受け取ることができる。その瞬間は、本物の感覚を得ていると言っても、僕は言い過ぎではないと思っている。

これほど幸せなウソが、このご時世、他にあるだろうか。

修復士は、稀代の詐欺師にも、なれるかもしれない。

#3 カフェと筋肉痛

僕はそんなに器用ではない。

器用に生きられないとか、そういった類の話ではない。まさに手先指先の話である。

確かに器用に生きているほうではなことは自負しているが、それと同じくらいに手先も不器用である。鶴をきれいに折る自信はある。アメリカの広大な土地で逞しく生きている農夫の方々に比べれば。

こんなことを書くと、仕事をくれた人に怒られてしまうかもしれないし、将来の仕事も減ってしまいそうである。

念のため(保身のため)にも、「この世界では」器用ではないほうだ、と書くことにしよう。学生時代、同じく絵画修復を志した(今では僕の奥さんになっている)同級生には、僕のテンペラ画を鼻で笑われたことがある。

しかし絵画修復は、誤解を恐れずに言うのであれば、あるいは多くの方の誤解を解くために言うのであれば、器用なことだけが求められるわけではない。

とある田舎町の教会で、実地研修があった。

どのような絵を治すんだろうと、前の日から想像してはニヤついていたかもしれない。それまで僕が触ったことがある絵画は、大きくても1mくらいの絵画だった。

その、余程の理由がない限り日本人が立ち寄らないだろう田舎の静かな街並みは、フィレンツェから電車で1時間もしないところにあった。そこで出会った作品は、悠に僕の身長を超える(もともと身長は高くもないが)ものばかりだった。高さが3m近くあったんじゃないだろうか。

当然、作品が大きいからといって、仕事が減るわけではない。小さい作品と同じ様に、解体し、裏返し、洗い、張り込むわけである。

裏打ちといって、弱ったキャンバスに、新しいキャンバスを貼りつける作業がある。新しく用意する布は、買ってきてそのまま使えるわけではないので、何度も仮の木枠に張り込んで熱湯をかける。そのうちに布はだんだんと「死に体」になってくるため、あまり変形しなくなっていくわけである。

作品よりも各辺50cmくらいは大きな布を準備する。その布を張り込む木枠は、つまりそれだけ大きい。木枠と言うよりも、建材と言った方がイメージしやすいかもしれない。おそらく建材を木枠に使っていたのだろう。この時ばかりは、僕とは体格もまるで違うイタリア人の同級生が羨ましかった。

作品を裏返すときは二人掛かり(それ以上多くてもいけない)でまず作品の角を強く引っ張りながら縦に持ち上げる。10枚くらい重ねた、「絶対に折り曲げることがあってはならない」2~3mのシーツの様なものを想像して欲しい。質量と重圧、両方の重みが、容赦なく二人の腕に委ねられるわけである。

持ち上がったところで別の二人が反対側の角を持って、作品を平行にする。王室のカーペットのように丁重に扱われ、ようやく一枚の作品は、もしかしたら僕の人生よりも長い間隠し続けていた面を、公衆の面前にさらけ出すことになる。

まるで当たり前だと言わんばかりに僕の全身を襲った筋肉痛が、次の日の朝、僕のカフェの準備を邪魔することになったことも知らずに、彼は1世紀以上許されなかった睡眠を貪っていたことだろう。

いや、彼もまた、筋肉痛だったのかもしれない。

いずれ若い女性が修復をやりたいと、目を輝かせて相談に来たとしても、理論の講師らしく、それらしいことを話すだろうが、絵画修復で腕っ節が強くなるということは黙っておくとしよう。

#2 傷という歴史

今回はイタリアの、もう少しだけ修復の世界に踏み込んでみようと思う。

「当時の顔料や技法を研究して、元の状態を精巧に再現するんですか?」

よく一般の方にこんな問いを投げかけられることがある。おそらく修復の世界に迷いこむ前の僕も、同じような事を考えていたかもしれない。いや、たぶん、考えていた。

「法王に誓って、そんなことは致しません。」

少しだけ気取って答えてみる。法王の部分を、イギリス人であれば「女王陛下」に、古代ギリシャ人であれば「犬」に置き換えるのかもしれない。

修復した箇所は、「オリジナル」と区別できなければならない。これは、今でこそ世界的な共通認識である。少し専門的なことばで言えば、「再認識性」と呼ばれる概念。イタリアが生んだ、一人の偉大なる歴史学者が提唱した言葉でもある。 その名を、チェーザレ・ブランディという。彼が記した本、「修復理論(Teoria del Restauro)」は、今や世界中の修復士達の必読書になっている。

イタリアにおいては、作品がきれいに見える事よりも、絵画が持つアイデンティティが重要視される。背負ってきた傷も、絵画が持つ歴史そのものなのである。傷を隠すという行為は、同時に、人類の歩みの歴史を消し去ってしまう事だということを、僕らはいつも頭に入れて作業に当たらなければならない。なのでオリジナルとは完全に異なる材料を使って、後年にも簡単に除去できるものを使用する。例えば、油絵に水彩絵具を使うことも多い。

「何百年前の建造物が、あたかも昨日造られたかのような姿で蘇った」というような内容を、テレビなどでおおきく取り上げられることがあるが、それは「物」にとっての「死」でもあると思う。ある人間の記憶を意図的に消し去り、細胞をまったく新しくして、むりやり「人体」若返えらせるような。

そこに生はない。

形あるものは、結局のところ壊れる。絵画にとってもそれは避けられない事実である。壊れるまでの時間を、いかに充実し、穏やかなものに変えることができるのか。これが修復士に課せられた命題でもある。絵画にとっても、あるいは自分にとっても。

絵画の寿命は、人間のそれよりもはるかに長い。いつか、僕の子孫が、僕の修復した作品を見ることができたとしたら、僕の仕事は少しだけ充実したものだったと言えるかもしれない。

だけど僕らの仕事の成果がわかるのは、残念ながら(あるいは幸運にも)僕らが死んでしばらくしてからのことなのだろう。

#1 芸術と職人の国

カチャン…カチャカチャ…

朝。食器が重なりあう音と、よく聞き取れない会話の声を聞きながら、少しずつ目が覚めていく。

下宿していたアパートは、1階にバール※があり、そのすぐ上に僕の部屋はあった。

イタリア・フィレンツェ。ルネッサンスの街。この数百年あまり姿をかえて来なかっただろうこの街で、中世にながらく眠っていた芸術は再開し、栄え、そして今でもすぐ隣に眠っている。

日本で言うところの京都と例えられることがあるが、フィレンツェの方がずっと当時の面影をのこしているに違いない。うちのお向いさんは1400年代の建物だったりする。

そして僕は、文化をつぎの世代へのこしていくための、数百の仕事の中の、ほんの一部にたずさわらせてもらっている。絵画修復という仕事だ。僕は幸運にもフィレンツェで、絵画修復を学ぶことができた。

現代の日本では、なんとなくできが良くて安い品物が人気になっている。安価に製造できて、それなりに見栄えも良くて、あるいは見栄えは気にされないかもしれないが、そういう物が、今の社会には求められている。

僕らの仕事はその真逆のところにあると思っている。古くて壊れそうなものを、壊れないように、壊れてしまった箇所は修正しながら、ひとつの作品を延命していく。おそらく僕らよりも寿命の長いこの魂たちが、次の世代、そしてまたその次の世代に受け継がれるまでを想像しながら、丁寧に手を入れていく。なによりもまず、手間がかかる。

フィレンツェには現代も「職人」たちが残っている。工房で作業をしている、分かりやすい職人も、もちろん多い。だけどそれだけではない。

仕事で使う刃物がダメになれば、近所の刃物屋できれいに研いでくれる。ちょっと体調が悪くなっても薬局で、ていねいに相談に乗ってもらえる。チェーン店のコンビニエンスストアなどは見当たらず、街中でコーヒーが飲みたければバールへ行くし、新聞を読みたくなれば新聞屋へ行く。アイスが食べたくなればジェラート屋に行き、タバコを買いたければタバコ屋へ行く。肉は肉屋で、パンはパン屋で買ったほうが、ずっと美味しい。

それぞれの店には、その道のプロフェッショナルがいて、それが僕の目には職人として映る。日本のスーパーよりも安くないけれど、人々はそれを惜しまない。

それは、人の手間を惜しまないということでもあると思う。

その結果として、歴史や文化というものが、街全体に息づいているように感じる。歴史や文化は、とても人の手間がかかるものだから。


※「バール」とは、英語で言うところの「バー」ですが、日本人が考える「バー」ではなく、カフェのような、いろいろな人が集うイタリアの代表的な場所です。